「日本人は・・・だ」と記事に書く度に、いちいち引っ掛かって困っている。その「・・・な」「日本人」、とは一体誰のことですか? どこにいるんですか? と問われたら、私に限らず皆、返答に窮するだろう。
「日本人は・・・」と言うとき、一億もいる「実体」を一々見ることは不可能だ。
だから、ごくごく限られた一部の「実体」を見た上で、イメージや推測を加えた、「観念」で言っているに過ぎない。
「具体」的な日本人の数十人からせいぜい数百人程度を見て、彼らに共通する性質を、あるフィルターを通して「抽象」しているに過ぎない、と言ってもいい。
「善人も悪人も死ねば皆同じように救われる」と考える日本人もいれば、逆に「六道輪廻」「因果応報」の死生観に震撼する日本人もいるのだから、何かを発言するというのは、ラクじゃない。
自分の主張は「観念」に過ぎず、ひょっとすると偏っているのかもしれない、という「自覚」だけは持っておかないと、「日本人論」の反故の山が高くなるだけだ。
かくの如く、私は基本的に、日本人論に懐疑的なので、従来は「文学的思考」をやって来た。
小説なら、1人以上、多くても20人くらいの事を丁寧に考えていけばいい。『源氏物語』のように400人以上も登場人物がいるのは、例外的だから。
そして、多旋律音楽のように、みんなが色んな歌を歌っているのを同時に聴きながら、抽象化できない部分は無理をせず、日本人や人間について考えることが来る。
文学とはいいものだ。
(オタクの文学論を記事にしていればいい日が、早く戻ってくることを願っている。)
それなのに最近は、「全体主義」の信者がウチの玄関先にまで勧誘にやって来て、日常の平穏が脅かされている。
どうも、西洋かぶれしたウルサい「リベラル」を、すべからく「全体主義」に入信させるべしと、かなり戦略的に活動しているようだ
小學英語課程。
彼らは、入信しない人間は「恥知らずだ」とか、「日本人ではない」とか言って、ウチのドアチャイムをしつこく鳴らし、帰ろうとしない。
今にもドアをこじ開けて、中に踏み込んできそうな程、意気盛んだ。
それで、嫌でもこちらの「日本人論」を述べて、お引き取り頂かねばならなくなった。
「観念」や「抽象」化した把握は、こんな風に、時に必要とされる。
私は、今ほど、広さと深さを合わせ持つ「観念」を、必要としたことはなかったと思う。
偏向した「観念」を持った権力者が、「私」の領域に踏み込んでこようとしている。その大きな動きに対抗する為には、こちらも「観念」を持たざるを得ないからだ。
「観念」は容易じゃないと懐疑しているだけでは乗っ取られてしまう
搬屋服務。
村上春樹の作中人物じゃないが、私は玄関マットみたいに踏まれて、屋内を奴等の価値観でリフォームされてしまうだろう。家の中心に、白木の祭壇かなんかを置かれるのだろう・・・。